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Channel: 宮田マスターのGERSHWINレポート
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リンダ・ロンシュタット自伝「SIMPLE DREAMS」を読む

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アメリカ歌手リンダ・ロンシュタットの自伝「SIMPLE DREAMS (A Musical Memoir)」がこの9月17日にアメリカ/カナダで出版された。海外音楽書籍日本出版事情に詳しい友人に聞いてみたところ、日本発売は難しいだろうとのこと。同じ日にグレアム・ナッシュの自伝「WILD TALES」が発売されたこともあり、この二人に関しては知りたいことが山とあるので二冊を同時購入した。大好きな音楽家が同じ日に自伝を出版するこの偶然をどう捉えたらいいのだろう。またこの自伝発売と同時に彼女のパーキンソン病が明らかにされ、二年前に引退していたことも多くの人の知ることとなった。
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リンダ・ロンシュタット、彼女がカントリー・ロックのトップランナーとなった1970年代半ばから80年代初頭、アメリカではスタジアムコンサートを開き、1979年に初来日した時は東京武道館で二日間のライブを行った。その頃リンダの魅力にとらわれていたあやこと僕は、神奈川、東京の二公演を観た。彼女のステージは観客とのコミュニケイトは音楽だけといったもので、サービス精神のかけらもなかったが当時はそれがかっこよかった。リンダの繰り出すロックンロールとロックバラードに打ちのめされた。

1986年に設立されたロックの発展に貢献したミュージシャンに与えられるロックンロール「HALL OF FAME(ロックの殿堂)」入りの名誉は今まで数多くの音楽家に与えられてきているが、リンダはまだこの殿堂の仲間入りをしていない。11個のグラミー賞を受賞し、ミリオンセールスレコードを連発してきた彼女より遅くデビューしたパティ・スミス、ブロンディ、プリテンダーズ、ハートなどに先を越されてしまった。彼女と同時期にデビューしたボニー・レイットは10年以上前に殿堂入りしている。

リンダがなぜ殿堂入りできないか、およそ理解できないけれど推測すると、基本的に彼女はカヴァーシンガーでありオリジナルを生み出していないこと。メキシコ、ドイツ、英国の血が流れる彼女はたとえばメキシコ音楽へ深い愛情を持ち何枚ものスペイン語アルバムを発表していること。ネルソン・リドルと古き良き時代のポップ・スタンダードアルバムを3枚製作し、ビッグ・セールスを記録していること、などが考えられるがたとえどんな理由であれ協会にリンダを殿堂入りさせたくない力が働いているとしか言いようがない。リンダの最後となってしまったソロアルバム「HUMMIN’ TO MYSELF(2004)」もジャズとクラシックミュージシャンによるスタンダードアルバムだ。ロックンロール誕生によってメインストリームから外れた音楽をリンダはこよなく愛した。

殿堂入りをリンダはまったく意に介していないようで、最近のロサンゼルス・タイムスインタビューでは「ロックシンガーと思ったことはない。ロックンロールは私の表現の一部に過ぎない」と発言し、かつてあることないこと書かれたロックのご意見番音楽誌「ローリング・ストーン」に対しては「ヒップでファンキーな音楽に目がない」とその潔癖主義とロック・エスタブリッシュメントを皮肉っている。

リンダ自伝で僕が最も興味あった1975~1980あたりの記述は極端に少ない。リンダがブレークし、セールスで大成功した時代であるにもかかわらずだ。彼女にとってただ通過するだけの時代だったのか。カーラ・ボノフもダン・ダグモアもダニー・クーチマーもラス・カンケルも、ワディ・ワクテルも・・彼らへの記述はない。ジェリー・ウェクスラーとの「Great American Songbook」レコーディングの失敗、ネルソン・リドルとの共演には多くのページが割かれている。ロスに移り住み、無名時代の様々な音楽家との交流の記述にはワクワクさせられたし、トルバドールでジム・クエスキン・ジャグ・バンドのマリア・マルダーを聴きながらジャニス・ジョプリンと一緒にマリアの魅力に嫉妬しているシーンなど微笑ましい。

アリゾナ州トゥーソンで生まれ音楽があふれる家庭に育った時代の彼女の記述は心温まるものがある。ハイスクール時代にロサンゼルスに旅をし、フォークロックの胎動を直に感じ、ロスへ行かなければ自分の音楽は見つけられないと確信し、大学一年目のある夏の夜ロス行きを決行する。まさに出発するというその時、両親に告げる。ショックを受けた親だったが、彼女の固い意志を知り、父親は彼が祖父から贈られた1898年製マーティンのアコースティックギターを「自分のギターを持った以上,喰いっぱぐれはないよ」と父親が祖父から贈られた時と同じスペイン語の科白でリンダに手渡す。映画の一シーンを見ているような古き良き時代のアメリカが伝わってくる感動的なエピソードだ。

彼女は10歳までに聴いた父親母親が歌い演奏していた音楽、78回転レコード、ラジオから流れる音楽が自分のベースになっていて、それ以外の音楽は自分のレパートリーにはないと語る。1997年、彼女の親友でもあった歌手ニコレッタ・ラースンが亡くなり行われたその追悼コンサートにリンダも出演し代表曲「ブルー・バイユー」を歌う。そこでリンダは最後のフレーズを英語ではなくスペイン語でメキシカンフレイヴァーたっぷりに表現した。観客もそれに反応し大きな拍手をおくる。リンダの屈託のない喜びの笑顔を想像できる。リンダはシンガーとして心に導かれるまま音楽の旅をしてきたが、巡り巡り、自分のルーツが帰るべき場所と宣言した瞬間だった。リンダ最後のステージは2009年11月、マリアッチのロス・カンペロスなどが出演したメキシカン音楽ショーに出演したものだった。かつてのどんなパフォーマンスよりリンダは幸せに見えリラックスしたステージだったと長年の友人アダム・ミッチェルは語り、リンダも同意する。

自伝をどこまで信用していいかはわからないけど、流布されていた奔放で恋多き女性のイメージは本当だったのだろうか?自伝に書かれている彼女は酒を飲まず、マリワナも数回体験したに過ぎず、愛情のないセックスは自分とは無縁と語る、倫理的で道徳観を持った女性としか思えない。

最近出演したTVインタビューでは早口で笑い上戸だったリンダは影をひそめ、凛として自分の意見を語る彼女を観ることができる。彼女ならパーキンソン病も克服していくだろうと思わせる強い意志を感じた。彼女の新曲はもう聴けないけれど、彼女の紡いだ音楽たちはいつでも再生可能だ。そんな音楽を途絶えさせないこと、それは彼女の歌にインスパイアされた者の務めかもしれない。

僕の拙い英語力では微妙なニュアンスを理解できない箇所が多々あった。日本語訳の出版を強く望む。


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